いちごのヘタ

頭の中にいれておいてもしょうがないこと

勝ち負けの世界、やめたい 2020/05/15

夜更しの限界を知る。自分が次の日の活動に支障をきたさずに起きていられる時間はAM2:30が限度である。3時まで起きているとやはりいくら寝たとしても眠い。疲れを感じながら起きると11時。就活エージェントとのオンライン面会を起床15分後に行う。それが仕事だからなのだろうが、自分のやってきたことを全肯定しながらヒアリングしてくれるので本当に悪い気がせずに喋れてしまう。洋画で人生ミスった人が椅子に円にして、自分の過ちを語り合って色んなことを励まし合うみたいなシーンを見せられたときにアレって意味があるのか疑問だったのだけど、自分のヒストリーを否定されずにアウトプットする経験って相当ヒーリング効果があるんだろうな。いや、そうじゃないかもしれない。普段浴びてる否定のワードの攻撃力が強すぎるから、その攻撃が飛んでこないってだけで普段身構えている分の体力を使わなくても済んでいるからラクに感じるのかな。

「プレゼン」このワードの堅苦しさは異常。もっと他のワード使ってくれたらこちらも緊張しなくてもどうにかなるのに。そういう案件色々ある気がする。名前のせいでその行為自体は大したことないのに仰々しく扱われているもの一覧。忘年会とかもそうだと思う。やってること酒飲んでるだけなのに、そういう会の名目をとられると一気に苦しいものになってしまっている。あとなんだろう。ミーティング、とか言われるのも嫌いだな。やってること喋ってるだけじゃん。

自身のやってる大したことないことを無理やり価値づけして、その価値に自らが推し潰される。そういうことばっかり世の中に溢れてしまっているなと最近感じてしまう。今日はそういう人たちばっか見た。主にネットで。

「病み垢」というジャンル内でのマウント論争の話を見かけた。色恋沙汰や将来への不安からメンタルが不安定になって、その不安のはけ口としてTwitterで知り合い以外の誰かに自分の弱音を吐き出す。そういう使い方をするSNSアカウントを「病み垢」というみたいなのだけど、その病み垢畑に生息してるアカウントのスクショが回ってきた。彼女いわく、

「色んなひとが心が弱くなってああだこうだ言ってるけど、実際その病みというのは大したことないのではないか?リスカちょっとしてるくらいだろ?文学作品にも触れてないし、精神安定剤も飲んでてデパスくらいだろ?、そんなん本物の社会不適合者とは言わない。ファッションだ!」

「あの太宰治がやらかした20歳での自殺未遂や21歳での精神病院への入院なども、自分は16歳、17歳で済ませている。僕は太宰に勝った!」

みたいなことを言ってるのを見て、自分の知らない世界をまた知れてしまうのと同時に、全てを勝ち負けでしか見られない特性の人間は、社会的にマイナスなステータスのマイナス具合でも争い出すのかと衝撃を受けた。

心の傷をつらつらと書いている人を見るのは珍しいことじゃないけれど、それって自分の傷の理解者を探して、傷の舐めあえる依存関係を作るためのプロセスの一環だと思っていた部分があった。しかし中にはこういうふうに自分の病状を個性のように捉えて、周囲と比較して優劣をつけるステータスのように大事に育てている経過報告のように展示してる人間もいた。早く誰かの何かしらの一番になって、そういうしがらみから抜け出して欲しいと切に願う。

 

悩み相談の最強のクローズ文句を思い出した。人の悩みを最大限に引き出したあとに「多分〇〇さんの悩みは、とても魅力的な恋人が出来た瞬間に全部キレイさっぱり解決するんだと思いますよ!」で返すやつ。相手の悩み事を最大限に粗末に扱えるのと同時に、相手にこれ以上とない虚無感を与えられる。仕事の悩みだろうが生き方の悩みだろうが、この言葉につないだ瞬間に、相手に自己承認欲に飢えた満たされない人間のレッテルをこれ以上となくジャストポイントで貼り付けられる。オフィス環境におけるテプラ並みに汎用性のあるワードであると思う。別に自分じゃなくても解決できそうな名目のお悩み相談という体をなしたサンドバッグパンチングのサンドバッグ役を押し付けられそうになった瞬間に、積極的に使っていこうと思う。

 

グラドルが安易に「ギャル」というワードを使って自撮りを投稿したらテンプレ王道ギャルに「これのどこがギャルなんだ」と怒られてる場面に遭遇した。これもTwitter。にわか叩きはオタク界隈の専売特許だと思っていたらどうやら違うっぽい。なんでもいいじゃんね!と外野は笑える話だけど、覚悟を決めて「ギャル」してる人からしたら許せなかったんだろなー。自分にも何かそういう細かい差異を許せなくなるくらいに熱中できるものができたらいいのにな、と羨ましくなった。自分が好き!と公言してるジャンルには常にずっと自分以上の好き!のエネルギーを燃やしてる先駆者がいて、その人の存在を見るたびに自分の好き!がまがい物のように思えてしまい、好きを叫ぶ声量を自然と下げてしまうところがある。意図的な盲目で、自分の好き!を100%表現したい。

 

昨日友人に付き合ってもらったプレゼン面接。想像の200倍はフランクだったが、その人の専門領域に関する事柄で詰められたときに黙ってしまった部分があった。完全に勉強不足なだけなのだけども悔しい。勝ち負けではないのは分かっているが、どうしても敗北感を抱いてしまう。自分自身も、前に書いた何でも勝ち負けの軸で物事を片付けようとしている人間の一部なのかもしれない。この感性から脱却する方法を可及的速やかに知りたい。就活シーズンに集団社会そのものから逃げ出して山に籠もった理系学生の話を聞いたが、やはりそういう荒療治しか方法はないのだろうか。同じような悩みを持った人間と、アメリカンスタイルで椅子を円にして語り合ってみたい。