いちごのヘタ

頭の中にいれておいてもしょうがないこと

誰か、地雷女について語り合いましょう。 2020/06/02

乗り気ではない予定が組み込まれている一日の始まりを久々に味わっている。それに備えて午前中は好きなことをしようと思ってずっとネトフリに入り浸りながら、アニメを流し見てスマホを眺める。

「地雷メイク」とかいうメイクの技法のネーミングが意外と炎上しないのはなぜなのか、地雷メイクのやり方を動画にしている女性ユーチューバーのサムネイルを眺めながら考える。様々なところで様々な観点から日本における女性の生き辛さや、ホモソーシャルな日本でモノ扱いされている現状に声を上げ続けている人達がいる。その人達が、自分らのことを”地雷”扱いされていることに上手に目を反らす理由って一体何なのだろうか?

地雷メイクを行う側、女性が言い出した事柄であるから。という理由も考えられるが、男性と女性のどちらが先に女性のことを”地雷”と呼び出したかというと間違いなく男性であるように思う。風俗などの水商売の店に通う層が、加工されつくしたパネルなどに騙されて、想像していたルックスよりも数段劣るような女性をあてられたとき、あるいは前述した店でやる気の感じられないサービスでお茶を濁されたときなどに「あの女は地雷だよ」「地雷嬢を引いてしまった」などと表現していた。これが女性を地雷扱いするルーツとなる使用法であった。

ところが、近年その「地雷」が表す幅が劇的に広がっていった。性格が気難しいような女性や、攻撃性の強い女性、集団生活に馴染めないような女性、依存性の強い女性etc…。そういうアウトサイダー的な特徴を持つ女性が自らのことを自虐的に「地雷女」として呼称しだした。2015年に巻き起こったアイドル戦国時代の影響で様々な形の「カワイイ」が大衆化して、そういうアウトサイダー的なルックスが男女両方から評価される土壌が発達したこともあるのだろう。「地雷」的なルックスが一つのコンテンツとして認知されるようになっていった。

こういう流れがあり、男性が定義していた曖昧な「地雷」のイメージが様々なモデルや社会の流れの中でだんだんとはっきりとした形を形成するようになり、そのイメージに憧れ、研究する女性が現れ、現在のように「地雷メイク」として外見的な特徴を示すワードの一種に昇華した。

この長い年月を使って、「地雷」と称されているモノたちをゆっくりと自分ゴト化していく過程こそが、本来の「地雷女」が持つマイナスなイメージをネタ要素として昇華することができたが故の、現在なのだろうか。それとも、自分たちと「地雷女」と呼ばれるような女性を完全に別世界の住人であるように区別し、コスプレのような、一種のあるあるネタの一部として女性単一のコミュニティ内のコンテンツとして捉えているから面白がっているだけなのだろうか。女性単一のコミュニティ内のあるあるネタであれば、加害者である男性が以前からずっと表現していた「地雷女」と女性内でのコミュニティにおけるそういったアウトサイダーな女性の外見的特徴のみを捉えた「地雷女」の意味合いが別物になってくるため、女性側が不快感を感じずに自虐的な「地雷女」の表現を受け入れることが出来ているのかもしれない。

色々自分で書きながら整理してみたところ、一番しっくりくるのはやはり最後にまとめた

”男性が以前から使っている「地雷女」と女性が最近になってもてはやし始めた「地雷女」は同一の単語を使用してはいるが、その言葉の先に示されているモノの対象の広さが異なっているため”

が正解なように思える。誰かとこれ喋りたいかもしれない。誰か、地雷女について語り合いましょう。

 

普段から癒やされていた北海道の犬カフェのオーナーが、先日の収束記念の花火に物申していた。「犬のような大きい音に敏感な動物は、花火などにはかなり驚いてしまう。可愛そうだから花火大会などでは自分たちで対策を練って対応しているが、今回のような時間も場所も告知されていない全くのサプライズの花火には対応のしようがない。この花火の企画は一種の自己満のオナニーのような企画で配慮が足りていない」みたいな理由の抗議。

普段なら鼻で笑って流していたのだが、あの花火の企画は自分の中ではブルーインパルス以上に元気の出る話題であった(結果はどうであれ)し、開催側がそのような人の抗議を受けて時間は告知していたのにも関わらずこんな言いがかりをつけられて、自身のお気持ち発散のトリガーのような扱いをされているのがどうも許せなかった。私情だが直後に嫌な予定があったことも重なり、わざわざそのツイート主に意見のリプライを送ってしまった。なるべく丁寧に、攻撃的なエッセンスを持たないように配慮しながら文章を作ってみたらあっという間に140文字なんて越してしまい、渋々ながらiPhoneのメモ帳スクショで異を唱える文章を送ってしまった。せっかくメモ帳アプリまで開いて用意したリプライなのに、指示語をフリック入力でミスしてしまい、変な文章になってしまって思いの他ダサかった。

このリプライのおかげもあってか、他にも時間の広報は行われていたことを報告するリプライが重なってかわからないが、投稿者も自分の誤解に気がついたような発言をしていて少しホッとした。普段は蚊帳の外から眺めていたTwitterの世界に久々に足を踏み込んだ感想としては、自分の私見が見ず知らずの人間に眺められ続けている様子は妙に緊張感に溢れていた。そして、自分のリプライが的を射ていたのかはわからないが60を超えるイイねがついてしまい、投稿から半日経過した今でも通知が細かく届く。自分の意見がこうも簡単に第三者に届いて、こうもダイレクトにリアクションを貰えるものであるとオンライン上のコミュニケーションに必要な適度な距離感覚が壊れてしまうような気がして不安になった。

始めて「バズったツイートに意見する側の人間」になったが、もうそうそうすることはないだろう。あの常に黄色信号状態のSNSは眺めるだけに越したことはない。

 

自分と同じようなタイミングでブログで日記を書き始めた友人のブログにドカドカと私信が綴られていたので答える。

ブログを書き始めたタイミングこそ同じようなタイミングであったが、そのブログを書く理由になったキッカケが全く別の人であり、互いにその影響を大きく受けているのがなんだか面白いな、と勝手に思っている。自分はライターの古賀及子さんの毎日の日記の記事に影響を受けて、自然体の等身大の文章を毎日書くようにしていたのだが、その友人はロックアーティストの影響を受けて、ブログを書き続ける、という選択をしたようで、自身の活動の中で感じた感性のようなものを大切にしたのが見て取れるような文章になっている。同じ毎日書き続ける日記でも色合いの違ったものに仕上がっている、そういうところに月並みな言葉だが、個性と生を感じられて、かなり励みになった。

”自分から出てくる言葉は、必ず自分が吸収した語彙と文章の中から生まれてくるものである。それ以上のものは生まれてこないし、生まれてきても言語化できない。そういうものをアウトプットしていくと「自分で読んだことのある新しい文章ができる」”この言葉をしみじみと思いだすキッカケにもなった。

0より1、1よりも10。10よりも…。とにかく継続したことに関しては絶対力になる。毎日のアウトプットの手段でもある日記もこれは例外ではないと思うので、一段落して自分を褒め尽くした後でも、もっと続けて見て欲しいと思う。ひとまず以上。

 

 

自分自身で思っていた以上に、関西弁が苦手であることに気がついた。かなりネガな心情で受けた会社説明会の担当人事がコッテコテの関西弁の使い手で、自分のトーク力に過剰に自信をもった企業プレゼンを聞かされ、予想以上にぐったりした。1喋れば十分伝わる場面でも平気で4詰め込んでくる姿勢と、その余分に3喋っていることに全然申し訳無さを感じない面の皮の厚さ。そういう部分も含めて苦手なタイプの関西弁使いであった。キングダムにハマっているからと言ったって、人事が新卒社員のこと「兵隊」って表現してしまうのは流石にナンセンスだろ。そういう部分になんも感じていないような点も、説明会の終了時間を25分もオーバーしてもなんの悪びれもなく、自己啓発本の目次に書かれているような耳障りの良いビジネスマインドの寄せ集めのようなアドバイスを行うような空気の読めなさも、全部が全部、関西人のマイナスイメージの集合体みたいな人で逆に面白くなってしまった。面白くなりながら、ミーティングを退出して、羽織っていたジャケットをベッドにぶん投げた。