いちごのヘタ

頭の中にいれておいてもしょうがないこと

何が好きかより、何が嫌いかで自分を語れよ!!!

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うるせーよバーカバーカ!

 

この画像、めっちゃ見るしすごい名言みたいな扱いされてるし、なんかコレ言ったもん勝ちみたいになっているのだけどめちゃくちゃ詭弁であると思う。

あとなんか知らないけど、これルフィが言ったセリフみたいに世の中出回ってるけれどあのゴム人間はそんなこと一言も言ってない。別の漫画の登場人物のセリフなのだ。この知識だけでアナタが今日この記事を開いた価値がゼロではなくなってくれたらこちら側としても気が楽になる。

 

dic.nicovideo.jp

 

ちゃんとセリフの出どころをはっきりさせたところで本題。

何が好きかを語ることと、何が嫌いかを語ること。どちらが簡単か?と考えてみると圧倒的に前者のほうが楽であると自分は思っている。

なぜならコンテンツに対して「好き」をあらわす感情は曖昧でふわふわとしたものであることが許される風潮があるが、「嫌い」を表現するにはその対象物に対して嫌悪感を抱く理由、嫌悪感の出どころを明確にする必要とされるからである。発言の重みとしては嫌い>>>好きだと考えている。

例えば、なんでもいい。「〇〇がなんとなく好き!」「理由はないけど〇〇気に入ってる!」と発言したところで、その発言者は誰からもマイナスな評価をされないし、その発言で不快になる人間も限りなくゼロに近いだろう。(中には自分の嫌いな人が自分の好きなものを好いている状況をよく思わない人間もいるが、今は例外。)

 

好意を示す言葉は、発言するだけ発言者にはプラスの効果しか発生し得ない、ある意味”言ったもんがち”のようなものなのだ。実際に今まで、何かを好きでもないのに好き!と発言して困ったことになった経験はそうそうない。

何かを好き!と発言することにはなんのリスクも発生しない。安全でノーリスクな愛想笑いのような、大学生の発する「いけたらいくわ」のようなものだ。コミュニケーションの手段のうちの相槌と同じような扱いで使用できてしまう選択肢で、それを続けていても会話している対象の人物の表面のみしか知り得ることができない。と思える。

 

それに対して、「嫌い」の感情を自分の外へと発信することに対しては必ず、必ずと言っていい。必ずエネルギーを消費するのだ。

迷惑なことに世の中はネガティブな感情へのヘイトがかなり高いので、ネガティブな感情を抱くには少なからず、何かしらの理由が必要とされることが多い。

最近は「キモい」とか「ウザい」とか「ダルい」「最低」「限界」「末期」とかそういう極限まで抽象化したネガティブな感情を表す言葉もどんどん作られて なにかに対してのマイナスな印象を簡単に表現することもできなくもないが、理由のない「嫌い」が無条件で許されたり同情を呼ぶ機会はそうそうない。世の中って本当に不条理。

 飲み会などで、他人の愚痴や陰口、ここでしか言えないような不平不満の話題が盛り上がる理由もそこにあると思っていて、その人の中にある曖昧な「嫌い」の感情を言語化する作業をそこにいる人間全員で協力して行うことで、その「嫌い」が咀嚼される。そこの人間が納得できるような「嫌い」の理由を練りだす行為。嫌いを正当化する作業はその「嫌い」の感情を世の中に許されるものにするためのいわば答え合わせみたいなものである。本来許され難いものが時間を使って身内と練り合うことで許されるものになる。話が膨らまないわけがないのだ。

そんなかなりカロリーを消費するような作業がそう簡単にホイホイとできるはずもなく、安易に心にもない同調や相槌でその場をしのいでしまうと、かなり疲弊する。その疲弊した瞬間に、冒頭の画像のような感情が湧き出てくるものなのだろうが、それは自分の中の「嫌い」に向き合わずに押し込めたことが原因で発生する疲弊のベクトルをお門違いの方向に向けているに過ぎない。

発信者が発信した「嫌い」に対するネガティブな感情をいなした自分が原因。それだけなにかを嫌うこと、嫌いだと思うことで発生するエネルギーは凄まじいのだ。放っておくこともできない、厄介なエネルギー。男が感じる”ムラムラする”と同じものなのではないだろうか。一回その感情を自覚してしまうと、無視はできない。決して。

 

また、なにかを嫌うことには、少なからずリスクが発生する。

自分の中に押し込めておけば、何も外に影響を及ぼさない「嫌い」をあえて言語化することで発生するものがある。その空間の嫌な歪み、違和感、争い。その他諸々の負の感情。

口に出さなければ絶対に生まれないものであるものをわざわざ口に出すということはその諸々の雰囲気を悪くする事柄を生み出すリスクをその発言者が無意識でもいい、負っていることとなる。そのリスクを踏まえて自分の中にある「嫌い」の感情を発信しているのなら、それはなにかを好き!と語っている瞬間よりもよりその発言者の自我が反映されている言葉であるのではないかと思う。

 

薄っぺらい同調で相手の「好き」の表面を撫でるよりも、相手と自分の中の「嫌い」をノーガードでぶつけ合う。そっちのほうが相手と不快を分かち合い、より深い関係性を築けるのではないか。と感じられた。好きの同調は簡単で、エネルギーを使わないが、嫌いの同調は自分に相当の負担がかかる。嫌いを語りあうほうが相手のホンモノの部分と会話ができるのではないかと感じる。全身全霊で嫌いを語って、ぶつけあってほしい。その先に残ったもの、場所はさぞかし安心できるものであろう。