いちごのヘタ

頭の中にいれておいてもしょうがないこと

無関係な小競り合いに時間差で全力で石を投げ込む

こんにちは。

 

読者のみなさんは200人近く所属しているコミュニティの中で結婚、SEXに対しての価値観について言及される機会が与えられたことはあるだろうか。おそらく絶対ないことであろう。自分ももちろんなかった。いやこの先も一切あってほしくはなかった。

の、だが、最近になってその瞬間に鉢合わせてしまった。舞台はラインのグループライン。しかも結構お固めなグループだったはずのそこにこんな記事のリンクがブチ込まれてきた。

 

r25.jp

 

「結婚」「セックス」「恋愛」「AV男優」

パッと目に入るワードだけでも決して200人弱規模のライングループで話題になるような内容であることは明白であるのだが、その投稿をシェアした人は次のように続けた。

”とてもいい記事があったので共有します。僕としては賛同しかねる部分はありますが、良いパートナーに出会ってみなさん幸せになれると良いですね。”(原文ママ

なるほどシェアした本人も受け手の自分が感じたような違和感を全く感じていないわけではないようで、少し場違い感は感じつつも”とてもいい記事”であったのでシェアしてくれたようで、自分はその熱量に負けてそのリンク先の記事にふれることになった。

そして案の定読む前から少し感じていたモヤモヤが、記事を読んだあとにそれがさらに拡大したので、そのモヤモヤを言語化してみよう、というわけである。

 

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※ここから先は上記に載せた記事に対する自分の見解なので、上記のリンクを読んでいない人は一回でいいから流し読みしてみてほしい。

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はじめに、この記事にかかれていた「結婚」と「セックス」の別軸化について自分が感じた疑問、違和感が多数あるので箇条書きでまとめておく。

 

1,記事内における「結婚」の在り方

 

2,記事内の「パートナー」の人間観を無視した展開

 

3,曖昧にされた数値化できない不確実なものの取扱い方

 

4,価値観の出処

 

以上の4点について順々に自分の見解を述べて行こうと思う。

 

1,記事内における「結婚」の在り方

 

まず、この記事に対する自分の見解としては「結婚を度外視にした”カップル”に対してのライフハック」としてなら充分に通じるものではあると思うし、自分は賛同したくはないが許容されるコミュニティなら現代的なドライな対人術として受け入れられるものではあるとは思う。

そこに「結婚」を絡めてくるからなんとなく釈然としないのだ。記事の中で「結婚」と相関する関係として描かれている「セックス」は

・快楽(肉体的快感)

・心の交流(精神的快感)

・社会的行為(体裁、子孫繁栄)

と3つのカテゴリに分けられて丁寧に考察されているのだが、それに対し「結婚」に関しては

・社会的制度、心的衝動である恋愛感情、身体的衝動であるSEXを押さえつけるもの

としか記載されていない。

果たして「結婚」は本当に単なる心身両方の衝動である2つを押さえつける「社会的制度」のみの役割しかないものなのであろうか。

この記事で一切触れられてはいないが結婚生活において重きを置くことになる経済的な部分や、その先の共同生活における精神的安定感など…、未婚者の自分には想像できないものが多いがその他諸々から目を瞑りすぎているのではないか。そこを度外視した状態で論理を展開されてもパラレルワールドでの出来事のようにしか感じられないのである。

 

2,記事内の「パートナー」の人間観を無視した展開

 記事内に登場する「パートナー」の存在が全く見えてこない。

そのため、記事内にかかれている事柄が全て独りよがりなもののように感じられる。「パートナー」の定義がただ単に体を重ね合うだけの極めてドライな邦画の登場人物のような関係性であれば話は別だが、ここに登場する「パートナー」は婚約済みの異性、あるいは婚約を前提とした交際をしている異性であるはずなのに、登場人物の思考があまりにも簡素で、ドライで、思考がずっとベッドの上でのみ展開されていて、その他の生活を度外視しすぎているように見て取れる。

記事の中盤で”「お互い他の人とセックスしてもいいんじゃない?」と提案されたときに傷つく人は、セックスと愛情を結びつけている人。行為と人格を結びつけすぎている人です。”

とあるが、一見利己的な理論のように思えるこれはあまりにも人間味がない主張ではないだろうか?

使用しなくても良い結婚という”社会的制度”を利用してまで共に生活している/しようとしている「パートナー」に自分という存在が他に代替の聞くものであると提案されて傷心しないひとはいるのだろうか?いや、いないであろう。

仮にそんな提案をされたときに「あ、今僕/私はセックスと愛情を結びつけすぎていたな…、行為と人格がごっちゃになってるな…」なんて考えられるような余裕があるとしたら、それは結婚に一番必要な愛情が不足している証拠なのではないか。その結婚は絶対失敗するので、パートナーの年収が自分の5倍以上ある場合を除けば避けたほうがいいものであろう。誰だって人生の経歴に簡単に”バツ”はつけたくないはずだ。

 

 

3,曖昧にされた数値化できない不確実なものの取扱い方

 

 2.の話に続くこととなるが、インタビューの内容をいささか強引にロジカルに 展開しようとしてるため、”数値化できない不確実なもの”を強引にグラフのように可視化できるもののように捉えて議論が展開されているように感じる。

『人がセックスをする意味は大きく分けて3つ存在して、そのなかでパートナー間でセックスに関する捉え方が異なることにより、価値観のズレが生まれる。セックスを必要以上に大事にとらえてはならない。パートナー間でセックスの意味について確認しあうべき』

というのがこの記事内の主張であるのだが、この主張は果てしなくフィクションに近いものであると思う。

どの部分に現実味がないのかというと、”パートナー間でセックスの意味について確認しあうべき”という点。

例に出されていたようなセックスの種類分け、質の違い、価値観を確認しあうことによってパートナー間の充実度が上がる。という前提がまずありえるものではないように思える。

例を出してみると

 

『あなたのことめっちゃ好きだけど、体の相性はいまいちだから他の人に抱かれるね!でも安心して!そのほかの人との行為では絶対気持ちは動かないから!』

 

みたいなことをいかにオブラートに包んで発信されたとして果たしてそれで納得できるのだろうか?

それに加え、結婚を前提に入れたパートナー間の”価値観の共有”ともなると先程も話題に入れた経済面も関わってくる。となるとさらに話はこんがらがってくるわけで。

 

『あなたのことめっちゃ好きだけど、体の相性はいまいちだから他の人に抱かれるね!でも安心して!そのほかの人との行為では絶対気持ちは動かないから!もちろん結婚するのだから生活の面倒毎諸々の負担は折半するよね?当然だよね?』

 

…たまったもんじゃないだろう。そういう理論が通じるようになるにはもっと気軽に相手の脳波とかが測定できるようになって、自分ではない誰かとの行為の中で精神的快感を全く感じてない、心が揺れ動いていないな。と数値で見えるようにならない限りは到底ムリな話であろう。

数値化も具現化もできないような感情という部分を互いにすり合わせる行為を「確認しあう、何回も話し合う」と至極当然のように、料理番組における「ここで塩コショウをお好みで適量ふりかけましょう」のような極めて簡単な手順のように紹介されていて、あっけにとられてしまった。

その工程がそんなにスムーズにできていたのなら恐らく人類はこんなにもギスギスしていないはずだ。

 

4,価値観の出処

 

最後に根底をひっくり返すようなことを言ってしまうが、この記事内で紹介されている価値観は、AV男優の方がお相手役の方との仕事の中でセックスと愛情を切り離した思考が出来るようになった。とのことだった。

これ、どう考えても前提として話が違いすぎる気がしてならないのは自分だけであろうか。

AV男優が”仕事”としているセックスというものはあくまで仕事であり、パートナーとなる女性共々にそのセックスの先にあるゴールは”金銭”である、ある意味”例外的”なセックスだ。

そこに今まで語ってきた、心身両方の快楽と社会的行為的な面が重視されることは皆無であり、お互いに求められるものはコンテンツの受け手の受け手の海綿体に血液を集中させるに事足りるためのより刺激的な絵面であり、自身の快楽は二の次の見世物、映像作品としてのクオリティである。

その絵面をカメラに収める背景で先に出てきた肉体的快楽を刺激するような行動が必要になったとしても、そのセックスのゴールは”金銭”であることに変わりない。

 それに対して今回の記事で言及しているのは、その行為のゴールは行為に及んでいる当事者の心身的な満足がゴールとなるような”通常”のセックスに関してである。

”例外”な状況のセックスで養われたセックス観で”通常”のセックスから発生する心身的な欲望の動きを語るのは、あまりにも対象がずれていて、的外れな論理展開なのではないか。通る行為が同じであろうとゴールが違うモノを同一視するのはあまりに安直である。

 

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以上でこの記事を読んで感じた違和感をぶつ切りだが全て紹介できたはず。なのだが、今回のようにAV男優などの”性”に関する事柄を生業としている人らの人生観が過剰にありがたがられている今のこの感じっていかがなものなのだろう。

新宿二丁目界隈のママとか、ラブホの上野さんとか、ゲイのアルファツイッタラーとか諸々。

性に関する事柄に職業上近くで接している、という一点が過剰に評価されすぎて、その人らの提供するモノを鵜呑みにしすぎて盲信しすぎているように感じる。その人らも同じ人間なわけで性欲とかその他諸々超越しているわけではないのに。メディア側もメディア側でユーザー引っ掛けたもの勝ち!と言わんばかりにそういうセンシティブな面を強調して記事やらなんやら作っていくから、受け手もその策略に思考停止して乗っかってしまってる面もあるのだろうが…。

一つの事柄、意見を直喩のまま丸呑みで摂取して、うまい!/まずい!の二択で判断するのはめっちゃ楽だし、ある意味反射的で余分な時間使わないでまっすぐ生きるには必要なスキルなのかもしれないが、事象を咀嚼して自分の思考と練り合わせていく作業も絶対に必要なわけで。

何かを摂取して、そのなにかに反応してそこから発信していくなら多少なりとも自分というフィルターを通したなりの意味を持てるようにならないと、自分の感性を表現するためのメガホンを持つ資格は得られないのではないか。