いちごのヘタ

頭の中にいれておいてもしょうがないこと

やはりインスタが苦手

はじめに書いておくが、決して食わず嫌いなわけではない。

4年前からアカウント自体は持っているし、少なくとも2桁回は投稿もしている。自分のアカウントを見ているユーザーはかなり少ないからリアクション数は少ないけれど、一時期は立派なアクティブユーザーだった。

今だってちょこちょこは開いたりもするし、いいね!もする。だけれどもやっぱり苦手…ってなってしまうんだよなぁInstagram

 

いや、別に友達がバリバリのインスタガチ勢みたいに化けてしまっても決して軽蔑はしないし、むしろ尊敬してしまうんだろうけど、Instagramのコアユーザーの生活って窮屈そうに思えてしまう。

Instagramの世界で人気なコンテンツはいつだって華々しいもの、突飛なもの、完成されたもの。もっと細かく細かく分類していけば細分化できるのだろうけれど、大体の共通点が”劇的”な瞬間だったりモノだったりするわけである。原色まみれのテーマパークとか、薄暗い照明の中で飲む酒とか、不自然なくらいに焚かれた照明の中で撮れた写真とか(世間ではポートレートとかいうらしい)ざっと思いつく限りで上げてみた劇的で非日常、イレギュラーな瞬間の切り取りの連続でInstagramのタイムラインは埋め尽くされていく。

だけど、自分の人生の中の幸福を感じていくポイントって必ずしもその”劇的”や”非日常”の空間だけではないんじゃないかな?と自分はインスタを見るたび見るたびに疑問に思ってしまうわけで。

別に他人のSNSの使い方にケチをつける訳ではないけれども…。

例えば、今これを読んでいるあなたが1分後、いや10秒後にいきなりダンプカーに轢かれる。

……はい、轢かれましたか?轢かれましたね。

体はめっちゃ痛いし、打撲もすごいし、目には見えないけれど多分骨だってボッキリ折れてます。さっきまでスマホだかタブレットだかをスライドしていた指だって激痛で欠片も動かせない。なんかアバラのあたりがめっちゃジンジンして熱い、熱いものがドロドロと体内から漏れ出す感覚。おそらく出血がひどいのだろう。痛い、痛い、痛いんだけどもその痛みすらもそのうち感じなくなってきてどんどん意識が遠のいていきます。あぁ、僕/私の人生はここで終わってしまうのかぁとか思いながら、これまでの人生がフラッシュバックされていく。……。

 

はい、ここ。

ここの場面で普段必死になってインスタに更新していたような事柄、フラッシュバックしてきましたか?顔がいいから、映えるからって理由でストーリーにまとめて固定しておいたなぁなぁな上辺だけの連れは出てきましたか?こないと思う。絶対。

 

絶対。とか言い切ってしまうと僕のことを嫌いでたまらなくってわざわざ粗を探して鼻で笑おうと身構えているタイプの読者の方が「いやw思い出すと思うけどねw」みたいな感じで鼻で笑うのでしょうが、そういうことではない。

自分はまだ死んだことも死の手前とかも経験していないのでわからないが、このやたらめったらに長い人生を人生たらしめるもの、自分の人生が終わるって瞬間に大事だと気が付かされるものって、決してインスタ映えはしないような日常の小さいプラスの積み重ねであると思ってて。

その人生の小さいプラスっていうものは、友人と強引に休みをあわせてねじ込んだ忙しいプランの海外旅行の中には存在しないし、様々なコネクションを駆使してびっちりと隙間なく埋められたスケジュール帳の中に紛れ込んでいるわけでもない。もっと生活に近い範囲で感じられる身近な事象の中に隠れているはずなのだ。

普段より余裕を持って支度ができているときの朝の時間とか、たまたま座れた満員電車とか、必要最低限のやりとりだけで集まれる友人との適当なご飯とか。湯船に浸かっているうちに気がついたら眠っているときとか。そういう感じ。名湯とか言われている草津の温泉とかでも経験できないような日常の中のリラックス。確かにこういうのって写真映えもしないだろうし、街頭インタビューとかで「自分が一番幸福だ!と感じるときってどんなとき?」みたいな感じでいきなり聞かれてもパッと出てくるものではないけれど、こういうものが今のガチガチにルールで固められた社会の中で自分を自分たらしめるものになっていく気がするわけで。

 

そういう写真映えはしないが、明確に確実な幸福を、昨今の”映える”という基準で作られたレールに敷かれている見せかけの幸福を追い求めるばかりで見逃してしまっているのではないだろうか。

”劇的” ”非日常”は確かに見栄えは良い。しある程度の幸福は得られるとは思う。でももっと、ありふれているばかりに見逃してしまいがちな幸福感も発見して、発信していくほうが豊かに過ごせるのではないか。インスタグラムの発達とともに作り出された写真映えを前提としたみせかけの幸福感は、写真映えしない本質的な幸福感を感じるためのセンサーをジャミングしてしまっているのではないかなぁとかいらんことを考えて、今日も今日とてInstagramが苦手になっていく。