いちごのヘタ

頭の中にいれておいてもしょうがないこと

「ピザ」の持つ絶対的安心感とコンテンツ力。

ピザハットさんとはてなブログがコラボ?して、ピザに対する思いを述べてブログを書いてみてください!とのことだったので、人生に一度、あるかないかくらいのノリでピザに対しての自分、ピザのあり方について考えて見ようかな。と思う。

次にこんだけピザについて考えるのはピザハットに対してESかなにか書くときくらいだろうな、くらいのテンションで。

 

まず、日本で一般的に「ピザ」はどのような立ち位置にある食べ物なのであろうか?とここで振り返ってみる。

まず第一に、日常的に口にするものではないとは思う。日本人の主食は「米」であり、かなり食文化が西洋化してきた現代でもそれは揺るぎのない事実だ。パンが普及してはいるものの、やはり主食の粋までは普及はしていない。

次に外食産業ではどうだろうか?繁華街に足を伸ばせば今は立ち並ぶ飲食店のほとんどがチェーン展開しているフランチャイズのものばかりであるが、その環境で「ピザ」というコンテンツは果たして普及しているだろうか?

答えはノーだ。その業界で店舗数を伸ばしているのはワンコインでありつけるような格安ハンバーガーショップや、サラリーマンのエネルギーを提供し続けるような牛丼チェーンなどだ。そこにはピザが入り込むスキがない。あくまで、「ピザ」というものは現代でも対して自分らに対して身近なもの、というにはどうにも距離があるものであるようだ。

 

では、自分らが「ピザ」に関わりを持つ機会はどこに存在しているのだろうか?

一つは先程、メインではないと言った外食時。ファミリーレストランなどのメニューの中にポツポツと置かれているもので、あくまでテーブルを彩る一つのメニューとして、置かれるようなピザ。またはパスタがメインのレストランなどでパスタとピザ、というようにセットでプッシュされているようなピザ。さらに言うなら、学生御用達の格安カラオケのコース料理の中に点在している申し訳程度の料理の中に、ポン、と出されるようなピザ。などピザと関わりは探せば安易に出てくるであろう。

だが、この上記3点は、真に「ピザを食べた」とは言わないだろう。この3つでピザを食べようとも、このエピソードを他人に話すときには「ファミレスに行った」や「イタリアンレストランに行った」「カラオケをした」と表現することが多いからである。そう、このような場面では我々日本人は「ピザを食べた」とは表現しないのだ。脇役のピザでしかないのだ。

となると、自分ら日本人はどのようなときに「ピザを食べた」と表現するのだろうか?

そう、やっとここで本題。宅配ピザを利用したシーンであろう。このシーンでやっとピザが主役になれるのだ。

「ピザパ」という言葉がある。これは「ピザを食べるためのパーティー」の略語であり、「パーティーでピザを食べる」というわけではない。あくまでメインコンテンツはピザ、というこれ以上にピザを食べる、という一点にフォーカスされる機会はないのではないか。というくらいに「ピザ」が主役の機会だ。人間がピザを囲むのではない。ピザが人間を引き寄せるのだ。

これほどまでにピザに真剣にならなくても、少なからず宅配ピザはその場に届けられた時点でその空間をかっさらうくらいの存在感があるものである、と自分は考えている。日本の宅配ピザは、ピザの本場に比べるとかなり値が張るものとなっているそうだ。理由はそのくらいの価格にしないと人気すぎて手が回らないからであると聞いたことがある。自分はそれに加えてさきほど述べたような”コンテンツ力”それに値した対価でもあるのではないか、と考えている。

 

宅配ピザはなにげない日常を彩るコンテンツ力の象徴なのだ。

 

宅配ピザを囲むシーンを連想していくと、そこには自分らが普段気にかけて生活しているような、社会のしがらみとは全く対局の位置にそれはあるように感じられる。

宅飲みの主役、誕生会のごちそうのメイン、ラブホのなし崩しで退廃的な時間の埋め合わせ、そして、ピザパ。

宅配ピザを囲む空間には”建前”が感じられないような気を許せる間柄の人間しか集まらないような気がする。

自分の人生経験が浅いだけかもしれないが、自分が今までピザを囲んだような空間で、その共にピザを食べる人間に変な気遣いをするような経験は一切ない。せいぜい皿はあるか?ウェットティッシュはあるか?くらいのものだ。そのくらいの気遣いで接しられるような間柄の人間同士がおざなりに集まって、なにか贅沢をしよう。そういう場面で出てくるものが”宅配ピザ”というものなのではないだろうか。

 

宅配ピザを囲んでいる瞬間、彼らは安心しつくしている。

仕事の納期を追っかけてくるような上司もいないし、なにか作業をしようにもその手はピザ生地に付着した油で使い物にならない。

このあとの予定だって、これでもかとぶっかけられたチーズが胃の中で存在を主張してくるし、口の中はコーラのあの甘ったるい後味と、コーラの炭酸でも流し込みきれなかった油分で満たされていてなにもする気が起きないであろう。

この「ピザを囲む機会」を共にしたメンバーの人間関係にも、何一つ変化は起きない。これ以上親密になることもないし、ピザが原因で険悪になることもない。ピザを囲む、という選択肢が出る空間に集まる人間らは、もうこれ以上とは言えないほどに互いに気を許した状態であり、ささいなことではその関係性は揺るがない。何気ない日常の些細なスパイス。ピザ生地のように薄く薄く引き伸ばした人生の1ページのデコレーション的な要素として、宅配ピザはあり続けるのだ。

なにかに躓いたとき、心がくじけたとき、もうだめかもしれないとちょっと弱気になったとき、ふと宅配ピザを食べる。という選択肢を脳内に出してあげてほしい。

それを自分と共に囲んでいるビジョンが想像できる人間がきっと今の自分にとって必要な人間であり、普段の自分に戻る助けになるような人間だ。心の拠り所はピザに集まるものなのだ。

  

#ピザが食べたい

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