いちごのヘタ

頭の中にいれておいてもしょうがないこと

レア度☆☆☆ の体験

 結構久々に体動かすことあったんだけど、翌日にきっちりかっちり筋肉痛になって逆に安心できた最近、あいも変わらず埼京線に高校時代から通算すると8年近くお世話になってるわけで、もう満員電車の乗り方とかももう極まってきてるので乗車率200%の電車の中でも結構余裕もって生きてるわけなんです。8年間の経験の中生み出した最適解は自分を極限まで殺して、小さくして、いかに集団の中の一員になって変な負荷をかけないようにするかみたいなスイミーごっこに徹する。だったりするんですけど、そういう環境でもどうにかこうにか携帯をいじろうと躍起になる人っているじゃないですか。もうスマホを構える隙間なんか全くないのにどうにかこうにか画面をチェックしようとする人。あそこまでしてスマホみる機会そうそうないだろ、むしろあってたまるかよって感じなんですけど、まぁその人からしたら知らないおじさんの背広の背中を赤羽〜新宿間の十数分眺めているのが耐えきれないほどの苦痛なのかもしれないのでそんなにうるさくどうこう注意する気もそうそうない。そんな満員電車内のパーソナルスペースいかれてる状態でスマホ使うと、高確率で周りに画面見えちゃうものじゃないですか。使ってる人が低身長だったら尚更そうで。首を数センチ動かすだけで自分の髪の毛が他の人にあたってしまいそうな環境で視線を動かすことも難しい。そんな状況で目の前に知らない人のスマホの画面があったら見ちゃいますよね?そういう状況につい最近直面してしまい、満員電車に乗り合わせただけの名も知らぬ小さくて細っこい体型したおばさんのスマホの画面を1分くらい”不可抗力”で眺めちゃうことがあったので、今からその話します。すごい。自分が他人のスマホの画面を覗いたっていう事実の言い訳だけで600字近く使った。

 

 その細っこいおばさんが外的ストレスが極限状態といっても過言ではない状況で眺めていたのは幸福を運ぶ青い鳥がトレードマークのアレ。Twitterであった。世間はちょうど嵐がSNSを始めたタイミングで、それはもうすごい反響だったのも記憶に新しいとは思うが、そのおばさんもどうやらその様子を自分のアカウントから眺めてるようだった。

 その後、なにかまた嵐関連の投稿をチェックしながら、なにやらリプライを返答するんだけど、まぁこのめちゃくちゃ劣悪な環境でよくもまぁフリック入力できるよな。と関心してたら一通り入力が終わったみたいで、その人のスマホ画面は使用者のアカウントを表示する画面に切り替わっていた。そこに映されてたアカウントの表記に、自分は表題の通りにレアな体験であったと思わされた。

 アイコンの画像は未設定。IDの表記は無造作にアルファベットと数字が並んだ長ったらしいもの。極めつけのユーザー名は「あ」。

 そう、何食わぬタイミングで自分は、よくアーティストの公式アカウントやバズったアカウントのリプ欄に絡んでいるような感情の欠片もないような、人格を疑うようなリプライを繰り返す「捨て垢」と呼ばれるようなアカウントの中身に遭遇してしまったのだ。SNSに浸っていれば見かけないことはないような悪意にまみれ、そのくせ強い自我を感じさせるような発言を繰り返す不満の塊みたいなものの中身は、自分の中でもっと頑固で髪の毛がボッサボサで肌が荒れてて一重まぶたのヨレヨレチェックシャツのガリガリなおじさんのようなものだと勝手に思っていた。オンライン上での攻撃性はどう隠しても日常の中でもにじみ出てくるもので、もう少し尖っている人間があの設定されていないアイコンと個性を必要以上に消した初期設定のIDの奥に潜んでいるものであると思っていたのだが、実態はそうではなかった。こんな吹いたら飛びそうな小柄な女性が、満員電車の中で更に身体を縮めながら必死に紡いでいた訴えだったのだ。その小柄な女性がこの満員電車の中で動かしたものが嵐だったのか、世の中の不条理であったのかは定かではないが、あの光景をみる機会があってから「匿名の意見」の重要度が自分の中で格段に上がったような気もした。手段としての匿名は決して卑怯ではないな。

 

 捨て垢の中身を見た自分は着実になにか変わったようで、外見的、スキル的には一切何も変化がないようなものなんだけど、そんなことを誰が気にするわけでもなく10月は終わりそうになっていたタイミングで、あまりああだこうだ言ってこない方の両親こと父親から珍しく「この日は家にいてくれ」と頼まれた。聞いてみれば北海道に住んでいる祖父母がこちらに旅行に来るそうだ。祖父母は本当に誰もが想像するような田舎に住んでいるおじいちゃんおばあちゃんのテンプレそのものみたいな人たちで、おっとりとした口調で喋って、しょうもないことで声を出して笑う。でも耳が遠いから何回も何回も話を聞き直したりしてるから会話のペースはめっちゃくちゃに遅い。そしてびっくりすることに、そのふたりの実家には固定電話以外の連絡手段がない。携帯も持たないし、唯一ネットに繋がっていたパソコンも「使う機会がほとんどなくなった」と言って7年前には売ってしまったらしい。近所の口コミ以外の情報網は北海道で聞けるラジオと、テレビ番組からしか得られないような生活を送ってる。だから周りの人間に比べると情報のアップデートがめちゃくちゃに遅いしで、でもその遅さ?がなんか逆に安心できる存在だったりした。

 そんな二人が関東に上京してくるのはかれこれ15年ぶりくらいだったらしく、色んなことが新鮮に映ったらしい。自動改札機とかにびっくりしてた(!?)。てかそもそも自動改札機にびっくりする人が身内にいるって想像できなかったからこちらもびっくりした。いつもは完全にウチのボスやってる母親も数少ない姑との対面の機会には流石に緊張するらしく、似合いもしない他所向けの正月のごちそうみたいな刺盛りみたいの用意して出迎えていた。他愛もない話と、祖父母の近況とか聞きつつ、人見知りの妹のフォローをしながら二時間くらい喋ってたら、そろそろ自分らが泊まってるホテルに戻らないと、というので家族総出で家の玄関までお見送りをしたときに祖父母が「これでもう一段落ついたね」みたいなことを話してたが、そのときはよく意味もわからないまま笑顔で見送った。明日ははとバスで都内を観光するそうだ、楽しんで。

 祖父母が帰ってすぐ、自宅はいつもの空気感を取り戻してああでもないこうでもないと母親がボスを始める前に、祖父母の今回の上京の目的みたいのを聞いてみたら、最近両親が買ったという「墓」を眺めにきたらしい。あとは自分ら孫の姿。それでもってもっと早く言ってほしかったのが、二人が上京してくる機会は現状の話ではどうやらこれで最後だったらしい。言葉を濁し濁しでそういったことを説明していたが、それっていわゆる「終活」ってやつじゃないのか。しかも自分がちゃっかりその「終活」の中のひとつのコンテンツになっていたのではないか。と思いうわぁなんだこの体験。と今になってなんだか変な責任感と後悔を感じている。別にあちら側からしたらありのままの孫を眺める、が目的なのだからこちらはノンプレッシャーで構えていればいいものなのだろうが、コンテンツにされるならこちらもされる側としての気の持ちようみたいのはあったと思うんだよな。自分が観光スポットになるみたいなことでしょ?「終活」ツアーのアトラクションとしての自分。湯畑目当てで草津行ったけど想像よりしょぼくてがっかり。みたいな感情に祖父母がなっていないかどうか心配でしょうがない。なんかもうちょっとどうにかできたはず。でも将来こういう機会増えるんだろうな。自分のことを観光スポット的に、コンテンツ的に扱う人たちに遭遇する機会。そのときにいかにその求められた役を務められるか。自分は祖父母にとっていい孫になれていたのだろうか。いや多分できてねぇな。リトライさせてくださいお願いします。今のナシ。したい。