いちごのヘタ

頭の中にいれておいてもしょうがないこと

Twitter病 2020/08/12

安直に店で出せるレベルのパスタを作ってしまったことが今日一番のトピックスかもしれない。ペペロンチーノ。ペペロンチーノといったら自炊にハマりたての自称自炊男子がやれ乳化だの、ニンニクの火の入れ具合だのでこだわり始めるようなチュートリアル的なメニューといったイメージがあり、なぜだか自分で作ることを敬遠していたのだが、実際作ってみたらとにかく手軽で美味しい。普通に近くのカフェで出したら800円くらいはとってもいいくらい。乳化とか、全く想定していなかったけれど、多分一発で身につけてしまったかもしれない。ペペロンチーノ完全に理解した。

講義はあいも変わらずダラダラと。就活は少し進んだかもしれない。理系が集まりやすい環境の集団面接。文系の方はコミュニケーション能力が云々。とか人事がよく話しているのを聞くと、そのくらいしか褒めるような場所がないから無理やり絞り出しているのだろうと考えていたが、そうではなかったらしい。電子工学科の同席した2人が本当に喋れていなさすぎて、こんな環境もあるのか、と思い知らされた。コミュニケーション能力を過剰に評価される理由に今日、触れられたかもしれない。

この感じはアレに似てる。池袋とか、秋葉原とかを歩いているときのみに鉢合わせられるオタクと遭遇したときの感触。おそらくはジーンズメイトでしか売っていないであろう裏地がチェック柄になっているチノパンを履きこなし、肩紐の長さが異様に長いショルダーバックを使っているようなオタクを見たときと同じ印象。自分の近くでは一切見ないからどこに生息しているのかは定かではないが、他のコミュニティには平然と存在しているイレギュラーを見つけてしまったような感覚。

人間が小さいので、自分よりも喋れていない人間が近くにいると途端に緊張がほぐれ、口が普段の1.5倍は回った。過去イチでストレスなく話せたと感じられる。これで落とされてしまったら、自分は驚くほどに流暢に、驚くほど的はずれなことを人事に語った男になってしまう。方向性だけは合っていてほしい。

久しぶりのゲリラ豪雨体感。大雨には慣れていたつもりだったし、雷でイチイチ騒ぐような人間ではないのだが、今日は違った。あまりに雷の落ちている場所が近かった。「ピシャーーン!」なんて音が落雷から発せられる瞬間を初めて聞いた。息を付く間もなく停電。ラジオ代わりに聞き流していたオンライン講義が停止して、この豪雨と雷と向き合うしかない状況になってしまう。Wi-Fiが飛んでいない自宅は、自宅でないように感じられ、少しも落ち着くことができずにTwitterで検索をかけて気を紛らわす。比較的近くの超大型ショッピングモールでも大掛かりな停電が発生したらしい。自分よりも多くの人がこの豪雨で被害を被っていることを感じられ、少しばかりであるが安心感を得られた。

以前行った面接で「トラブルシューター」という言葉をど忘れしてしまい。とっさに「ウイルスバスター」なんて表現してしまった企業から次回選考のお知らせが届く。果たしてそれでいいのか?こっちが不安になってしまった。そんなタイミングで、もはや週2ペースで受験している適正検査。確率と組み合わせの問題をうろ覚えの知識で適当に処理をするのも何回目なのだろう。解法を調べないといけないと思いながらも、その手間を面倒に思い、そのままうろ覚えで解き続けている。

GOTO キャンペーンで旅行に言ったアカウントが、会席料理のボリュームの多さに対して難癖をつけていて衝撃だった。逆張りを繰り返し続けると、自分の意に反する事柄を総じて古臭い考え、ナンセンスな考え、と分類分けしてこき下ろすようになってしまうのだろうか。ツイートを見てここまで苦々しい気分になったのは久々。そして、もっと嫌だった事柄としては、そういった自分の気に食わないものを気に食わないと発するときに、やたらめったら強い意味を持つ単語や言い回しを使っている人間が、他所様の子供の教育に口を出すような立場の人間であったこと。ましてやネットで文章を書いて小銭をもらっている事実だった。

 

こういった、自分の主観を過剰に強い言葉を使って発信して、必要以上に集めなくていい方面からまでのヘイトを集めてしまう症状を勝手に「Twitter病」と呼んでいる。

140文字という限られた文字数の中で自分の感情をまとめるにはどうしても単語1つ1つの意味をチューンナップしていく作業が必要になってくる。そうでもしないと文字が詰め込めないから。そうやって、なし崩し的に、本来の意味以上の意味合いで不必要なほどに強化された言葉で埋め尽くされたある意味で凶暴性の強い140文字が生まれてしまう。

そういった凶暴性に、大方の発信者は気がついていないような素振りを取っているが、実際は見てみぬ振りをしていることが多い。納得できないツイートを、一度コピーしてみて、自分のTwitterのツイート画面にペーストしてみて欲しい。すると、ほんの少しだけそのポストをした側の立場に立てる瞬間が確かに存在する。その立場になると、文章が持ちうる凶暴性は不本意に生まれたものではなく、故意に作られたものであることが容易に感じ取られてしまうのだ。

自分の作った文章の凶暴性に一度目をつぶると、頑なに目を瞑り続けないといけない状態を強いられる。目を瞑り続けるために必要なのが、飛躍した論理。強引なロジックで自分のことを正当化しないと、自分が目を伏せた凶暴性を確認しないといけなくなるから、どんどんと詭弁を語り、自分をロジックで武装して正当化するようになる。それでは誰も得をしないし、よりヘイトを集めるだけなので、本末転倒だ。

そうならないために重要なことは、過剰な言葉の羅列が生み出す凶暴性の自認と、凶暴性のある言葉を使用せずに、自分の主観を主観以上に語ることを阻止するための適切な語彙であるのかもしれない。凶暴性を意固地に認めないような現象こそ、「Twitter病」の代表的な症状ともいえる。

番外編として、この騒動のせいでまたジャックナイフのような煽り文句が生まれてしまったのを目の当たりにした「GOTO キャンペーンでしか旅行に行けないような層」という言葉。これはなんというか、前で話した凶暴性とは違ったベクトルで凶暴な煽り文句だと思う。

コロナの状況で、地方の住人の不安などを度外視して旅行に行くようなモラルの欠如している部分と、普段旅行に行けないような収入である人らがここぞとばかりに浮足立って旅行に行く様子を上から見下ろすような、収入面をコケ下ろす金銭的な方面での煽り。この2方面を同時に刺せるような言い回しが誕生してしまっているのが恐ろしくて思わず乾いた笑いが零れた。これをもっと強い言い方で示した「GOTO キャンペーンは実質障害者手当」なんて飛躍の仕方を目にしたときは流石に笑えなかったが、障害者手当と呼ばれるに値するような世間知らずの代表のような印象強めのサンプルが世に発信されてしまったから、しょうがない側面もあるのだろう。