いちごのヘタ

頭の中にいれておいてもしょうがないこと

警察が守っているもの 2020/06/08

祖母の老化が著しい。6時前に目が覚めてしまい手持ち無沙汰だったようで早朝から洗濯に取り掛かり、そのついでに爆睡真っ最中の自分の部屋のカーテンを開け放った。思わぬ日光消毒を食らってしまい、目覚ましアラームの一時間前に目を覚ますハメになった。なんなんだ。

講義をこなして、昼食にナポリタンを作る。作り方は簡単であるのに、どうにも最近ミスが多い。麺がボソつくと言うか湿気が足りてないような気がする。適度に茹で汁を加えてはいるのだけど、2人前の調理になると流石に足りていなかったようだ。毎回毎回作る量が異なると完成品にムラができてしまう。

セクハラを告発されたイケイケ編集マンがTwitterで一連の騒動に関して謝罪文を挙げていた。謝罪文に関しては簡素であるがテンプレートに沿っているものであったが、その当人が気に食わない人はまだゴタゴタと謝罪の内容に関してもまだ言及していた。しかもそれが一人ではなく何人も。何も言うなとは言わないが、別に言わなくてもいいのではないだろうか。わざわざ本人にブチ切れないと気がすまない人間は意外にたくさんいることに気が付かされる。社会から責められるようにした人間であるから石を投げられて当然。と考える人と、石を投げて当然。と考える人の頭のしくみは同じなのだろうか。警察が一人の犯罪者に対して3人も4人もくっついて連行していく様子をニュースなどでよく見るが、あれは犯罪者が暴れて逃げ出さないようにするための人数配置であると考えていたが違うのかもしれない。石を投げられるべき存在に石を投げて当然と思っている無関係の”正義の押し付け”から犯罪者側を守っているのかもしれないな。

久々に他人の読書レビューを見る機会があった。「コンビニ人間」に関してのレビューだったが、あの自分にとっては(多分大多数の人間にとっては)特殊な主人公に共感を抱いている人の多さに驚いたと同時に、自分が言いたかったことを自分より先に文にまとめてくれている人に出会ったときの納得感を味わえた。

気に入った小説家を見つけたときには、その次に購入する作品は、その人がエッセイを出しているのならエッセイにすると決めている。エッセイに描かれるその作者の人間観が、小説の登場人物の行動原理にあらわれている部分が見て取れて、様々な作品の理解につながっていき、作者と登場人物の両方に愛着が持てるから。「コンビニ人間」の批評をしていた人は、作者のエッセイにまで手を伸ばしているのだろうか。小説の中の登場人物はやはり作者の人間性と観察力の切り売りであるように思えるし、読んでみたらその感想も変わってくるだろうに。

ワイドショーがずっとずっと続いているのは、事実を伝えるメディアとしてではなく、視聴者の見たい事実を見せるための”ショー”なのではないか。と感じ始めた。今日のテーマになっていたのは緊急事態宣言が解除された後の繁華街。109で服を買い、原宿でクレープやタピオカを楽しむ若者たちがいかに感染症に無関心であるかをアピールするかのように特集されていて、同じ若者世代としてはいい気分がしなかった。感染に対する意識の違いに個人差はあれど、年齢における差異は確実にないように思われる。若者が来月の家賃のために必死になって働いて、帰宅ラッシュの満員電車に揺られているなかで、制作側はやることもないような老人たちの暇つぶしのために若者の無計画性だけにスポットライトを当てて、若者をアホに見立て、サンドバッグにしようとしている。そういうふうにワイドショーがあまりにくだらないもののように見えてしまって風呂上がりのサッパリ感が阻害されてしまった。

感染病に無関心な人間を特集したいならもっと平等にやって欲しい。緊急事態宣言下でも採用選考スケジュールを一切変更しなかった企業の呼び出しに応じて外出したときには普通にたくさん見たぞ。用事もないのにポケモンGO片手にブラブラしてる老人たち。平等でないものを平等に見せようとしたり、偏った見解を水平に見せようとしたり。そういう魂胆を持ったメディアや人間が多すぎるし、それを鵜呑みにする人も多すぎる。また愚痴になってしまった。そろそろさいたま市の外の景色を見たい。