いちごのヘタ

頭の中にいれておいてもしょうがないこと

マクロな怒りと、ミクロな引きこもり 2020/06/03

春服に袖を通さないままに春が終わるような空気が漂っている。ずっと伸びていた人参も、暑さに参ってしまっているのか成長が遅くなっているような気もしたが、ひっくり返してみると根を張る準備の方に取り掛かっているようで、見えないところで愚直に努力を重ねていた。少しでも人参の葉の成長性に疑いをもってしまった自分が恥ずかしくなってくる。

かましいほどに暑いので、この日光をどうにか有益に使いたいと思い久々に布団を干した。干しながら自宅で過ごしていたが、どうにもこうにも居場所がなくて、以前買ったヨガマットの上に寝転んだら思った以上に快適で1時間くらい意識を飛ばしてしまった。色々と宙ぶらりんであるのに、こうやって時間だけはたんまりある瞬間って、多分今を逃すと定年退職後くらいしかない予定なのだけど、こんな使い方でいいのだろうか。何回も不安になるけれど、身体と頭は全く焦ろうとしないのが悩みどころ。

テラハのときに怒っていた、自分が何に怒っていいいのかわからない受動的な人たちは今度は黒人の人権問題について必死に怒っていて、相変わらず忙しそうであった。そういう「怒りの矛先を大衆に定めてもらえない人ら」のめんどうな特徴として、自分たちが怒っている事柄が多数派であることが常であるので、怒っていない人たちをマイノリティのように捉え、そのマイノリティに向かって怒ることを押し付けてくる点がある。マイノリティの人間が怒っていない理由を、その自体を知らないからだと決めつけ、多種多様のアプローチで着火剤を用意して、怒りのムーブメントに巻き込んでこようとする。そういう動きが気持ち悪く感じてしまうのと同時に、彼らが情報を一辺倒にしか見れていないように見えて、少し引いてしまう。海を超えた出来事に怒るのを止めはしないけれど、もうちょっと身近で感情発散させないといけない事柄がたくさん発生しているはずなんだけど。

あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」がネトフリに登場。フジテレビから権利戻ってきたっぽくて最高だ。あれをリアルタイムで見ているときには、自分が主人公のじんたんのような引きこもり生活に流行り病が原因で追い込まれるとは思ってもなかったので、じんたんのコテコテの引きこもりスタイル(クセの強いTシャツにラクなズボン、伸び切って結いた髪に、裸足)が引きこもりのテンプレを詰め込んだコスプレのように捉えていたが、人間引きこもりになると、自然とあのスタイルに行き着くことを身を持って知った。今の自分のクセの強い2014年のライブTシャツを着て、高校時代のテニス用の短パンを履いて、就活生が許されるギリギリの長さの髪をまとめる姿はまさにじんたんのような「引きこもりルック」そのものだった。違いといえば、幼馴染の幽霊が見えないことくらいだろう。俺もめんまを見つけて、花火を打ち上げたい。

2月に流れたと思っていた約束が、6月の今になってまた動き出した。と思ったら止まった。思えば自分から何かを計画して、それに人を誘う。ということを2年くらいやっていないような気がする。飲みやご飯の予定くらいは立てるが、旅行とか、レジャー系のイベントなんか特に。周りの友達に恵まれすぎて、受け身でも面白いにめぐりあえてしまっているのが原因なのだろう。温室育ちのコミュニケーション、そろそろ脱出していかないと。

”そんな人間は、将来毎年同窓会に参加するような大人になってしまう。なぜって?学生時代がピークでその先には何もないから。”

今日シリーズを見尽くしてしまった海外ドラマのセリフは自分にも刺さった。刺さるのが5年遅かったが。

www.netflix.com